ちょっと本気で書くよ。カラいよ。
『20世紀少年』『マクロス』クレしんの『オトナ帝国の逆襲』『メガレンジャー』の最終話、そういった作品を思い出した。あとタイトルが後藤ひろひとみたい。
しかしそういう要素が、まったく噛み合っていないまま、既視感だけを残して目の前を通り過ぎて行った印象。
歌で解決も、少年時代の「原罪」による「現在」のカタストロフも、大衆による個人のスケープゴート化も、全部既に描かれている。いや、「既に」はこの時代の創作では仕方ないことでそれ自体は問題じゃないのだけど、「じゃあ」が観えなかったのが残念。要素を組み合わせて新しいものを観せる、とか今語り直すことで新たな意味性を与える、とかそういう戦い方をしなければ、それは「ただのパロディ」にすらならない。そして、そういう「既視感」が組み合わせの妙を観せることもテーマを強く打ち出すこともないまま、ただ「要素」のままに浮かんでいた。かといって「あるある」的なベタな展開、フィクションの「お約束」に終始してくれるわけでもないので、頭の中にある「元ネタ」と舞台上のズレばかりが目に付く。「既視感」が「違和感」に変わっていく。こうなると非常に居心地が悪い。
これは今作に限らず、脚本についてよく思うことだが、なぜ対立軸を複数走らせてわざわざブレさせるのだろう。「A-B」の二項対立とそのどちらにも属すのに属せない「AB」の存在。それだけで充分に物語はドラマチックにできる。なのに、複雑系志向なのかそもそも捻れに気付かないのか、対立項を複数設けたことによって当初のテーマや物語の筋がブレている脚本がとても多い。複雑系は余程観せ方をシンプルにするか、観客が追えなくても成立する仕掛などなにかの工夫、もしくは凄まじいストーリーテリングの腕が必要なのだ。この作品にもっとも重なるのは『20世紀少年』だと思う(少年期の原罪・政党作って世論操作・巨大最終兵器・歌による解放)が、あれは浦沢直樹の序盤のサスペンスフルなストーリーテリング、つまり風呂敷の広げ方によって過去と現在を交錯させる。ジワジワと現在が過去に侵食され改変されていく様を丁寧に描くこと、そして「少年時代」の手触りのあるリアルな描写。それであの設定を(序盤は)成立させて(あくまで序盤は)いる(浦沢作品の終盤のとっ散らかり方はまったく評価してない)。
エンターテイメント作品として「観やすさ」「楽しさ」を第一に考えるなら、プロット段階のシンプルさ・丁寧さを考えて欲しい。今作でも、例えば「1人の命-多数の命」と「有事-演劇」が微妙に重なってるようで重ならないモヤモヤと歯痒さが多々見受けられた。ストーリー上の「課題」と「解法」、つまり作品のルールが明示されないまま、しかしエンターテイメント的なライド感をこちらに押し付けても、乗れないままストーリーは進行していく。
テーマ性に限らず、キャラクター配置も捻れが見えた。キャラクターの関係性(主に恋愛)の矢印が複数用意されていたにも関わらず、そのすべてが消化されたわけではないこと。ドリル娘(あの設定は面白かった)がドラマチックに解消されたくらいで、他のキャラクターはわりとあっさり、もしくはいつの間にかイベントが解決されていたのが勿体ない。また、死なせた少女が歌と絵が好き→芸術→主人公が演劇をやる動機、というのはちょっと無理がある、というか作家が「演劇」を語りたいがために自然なルートを捻じ曲げてないか?と思った。「歌」がキーアイテムならバンドでいい。自分の表現について語りたいがためにわざわざ「演劇」にした、そういう「作為」が見えてしまった。自分の表現そのものについて語ることにはもっと注意深くあって然るべきだと思う。語るべきこと、語れてしまうからこそ扱いには謙虚であるべきだ。「物語」を歪めてまですることではない。
あと細部だが『ベイブレード』と『セーラームーン』はブームの時期が被ってない。セーラームーンは90年代後半、ベイブレードの流行は2000年入ってから。その年代の男子小学生が知っているとしたら実写版の『セーラームーン』(2003)だろうが、ヒットしなかった作品をわざわざ持ち出すとは思えないので、これはリサーチ不足だろう。これは細部だが、「失われしあのとき」を描く作品なら余計に、神が宿る部分ではないだろうか。有名な「『AllWAYS』ゴジラ問題(映画『AllWAYS』の劇中で上映される『ゴジラ』のデザインがその年代のものと異なってた)」のように、小さなシーンではあるが、非常に違和感が残った。そして、フィクションとしての強度を失ったように思った。
またこれは演出の部分だが、オープニングでの「観客役」の演技が、なぜあんなにフィクショナヴルだったのだろう。「虚構-現実」が溶け合うこと、それを描くなら、観客に徐々に違和感を持たせるくらいに段々と「芝居」になっていく方が効果的だろう。第一声から「演劇喋り」そのものの発声で入ってきたのは、効果的とは言えないだろう。「虚構-現実」の間(あわい)を描きたいなら、芝居の「フィクション値」レベルのツマミに、もっと繊細になる必要がないだろうか。
エンターテイメントほど、脚本・演出はシステマチックで構造的に整ったものでなければならない。まず物語としての道理・倫理(『現実』のルールと異なっていても、物語が「かくあるべし」とあるべき場所にあること)が明確に存在すること。それを基礎として、そのうえに「論」も「説」も、つまり作家性というやつも、アッと驚くトリックも、実験的手法も初めて成立する。
エンターテイメントなら、と但し書きを付けなきゃいけないんだろうけど、現代のほとんどの表現がエンターテイメント性を持たざるを得ない以上、もっと物語は設計図段階で考えられるべき、だと思うのだけどどうだろう。最終的なルックだけで語られ過ぎている、と思うのだけどどうだろう。
以上、えらく筆鋒が厳しくなった部分もあるかも知れませんが悪しからず。
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