2016年04月16日

感想文:『ギロチン伯爵と七つの秘宝』

駄目なたすいち『ギロチン伯爵と七つの秘宝』を観た。

ちょっと本気で書くよ。カラいよ。

『20世紀少年』『マクロス』クレしんの『オトナ帝国の逆襲』『メガレンジャー』の最終話、そういった作品を思い出した。あとタイトルが後藤ひろひとみたい。
しかしそういう要素が、まったく噛み合っていないまま、既視感だけを残して目の前を通り過ぎて行った印象。
歌で解決も、少年時代の「原罪」による「現在」のカタストロフも、大衆による個人のスケープゴート化も、全部既に描かれている。いや、「既に」はこの時代の創作では仕方ないことでそれ自体は問題じゃないのだけど、「じゃあ」が観えなかったのが残念。要素を組み合わせて新しいものを観せる、とか今語り直すことで新たな意味性を与える、とかそういう戦い方をしなければ、それは「ただのパロディ」にすらならない。そして、そういう「既視感」が組み合わせの妙を観せることもテーマを強く打ち出すこともないまま、ただ「要素」のままに浮かんでいた。かといって「あるある」的なベタな展開、フィクションの「お約束」に終始してくれるわけでもないので、頭の中にある「元ネタ」と舞台上のズレばかりが目に付く。「既視感」が「違和感」に変わっていく。こうなると非常に居心地が悪い。

これは今作に限らず、脚本についてよく思うことだが、なぜ対立軸を複数走らせてわざわざブレさせるのだろう。「A-B」の二項対立とそのどちらにも属すのに属せない「AB」の存在。それだけで充分に物語はドラマチックにできる。なのに、複雑系志向なのかそもそも捻れに気付かないのか、対立項を複数設けたことによって当初のテーマや物語の筋がブレている脚本がとても多い。複雑系は余程観せ方をシンプルにするか、観客が追えなくても成立する仕掛などなにかの工夫、もしくは凄まじいストーリーテリングの腕が必要なのだ。この作品にもっとも重なるのは『20世紀少年』だと思う(少年期の原罪・政党作って世論操作・巨大最終兵器・歌による解放)が、あれは浦沢直樹の序盤のサスペンスフルなストーリーテリング、つまり風呂敷の広げ方によって過去と現在を交錯させる。ジワジワと現在が過去に侵食され改変されていく様を丁寧に描くこと、そして「少年時代」の手触りのあるリアルな描写。それであの設定を(序盤は)成立させて(あくまで序盤は)いる(浦沢作品の終盤のとっ散らかり方はまったく評価してない)。
エンターテイメント作品として「観やすさ」「楽しさ」を第一に考えるなら、プロット段階のシンプルさ・丁寧さを考えて欲しい。今作でも、例えば「1人の命-多数の命」と「有事-演劇」が微妙に重なってるようで重ならないモヤモヤと歯痒さが多々見受けられた。ストーリー上の「課題」と「解法」、つまり作品のルールが明示されないまま、しかしエンターテイメント的なライド感をこちらに押し付けても、乗れないままストーリーは進行していく。
テーマ性に限らず、キャラクター配置も捻れが見えた。キャラクターの関係性(主に恋愛)の矢印が複数用意されていたにも関わらず、そのすべてが消化されたわけではないこと。ドリル娘(あの設定は面白かった)がドラマチックに解消されたくらいで、他のキャラクターはわりとあっさり、もしくはいつの間にかイベントが解決されていたのが勿体ない。また、死なせた少女が歌と絵が好き→芸術→主人公が演劇をやる動機、というのはちょっと無理がある、というか作家が「演劇」を語りたいがために自然なルートを捻じ曲げてないか?と思った。「歌」がキーアイテムならバンドでいい。自分の表現について語りたいがためにわざわざ「演劇」にした、そういう「作為」が見えてしまった。自分の表現そのものについて語ることにはもっと注意深くあって然るべきだと思う。語るべきこと、語れてしまうからこそ扱いには謙虚であるべきだ。「物語」を歪めてまですることではない。

あと細部だが『ベイブレード』と『セーラームーン』はブームの時期が被ってない。セーラームーンは90年代後半、ベイブレードの流行は2000年入ってから。その年代の男子小学生が知っているとしたら実写版の『セーラームーン』(2003)だろうが、ヒットしなかった作品をわざわざ持ち出すとは思えないので、これはリサーチ不足だろう。これは細部だが、「失われしあのとき」を描く作品なら余計に、神が宿る部分ではないだろうか。有名な「『AllWAYS』ゴジラ問題(映画『AllWAYS』の劇中で上映される『ゴジラ』のデザインがその年代のものと異なってた)」のように、小さなシーンではあるが、非常に違和感が残った。そして、フィクションとしての強度を失ったように思った。

またこれは演出の部分だが、オープニングでの「観客役」の演技が、なぜあんなにフィクショナヴルだったのだろう。「虚構-現実」が溶け合うこと、それを描くなら、観客に徐々に違和感を持たせるくらいに段々と「芝居」になっていく方が効果的だろう。第一声から「演劇喋り」そのものの発声で入ってきたのは、効果的とは言えないだろう。「虚構-現実」の間(あわい)を描きたいなら、芝居の「フィクション値」レベルのツマミに、もっと繊細になる必要がないだろうか。

エンターテイメントほど、脚本・演出はシステマチックで構造的に整ったものでなければならない。まず物語としての道理・倫理(『現実』のルールと異なっていても、物語が「かくあるべし」とあるべき場所にあること)が明確に存在すること。それを基礎として、そのうえに「論」も「説」も、つまり作家性というやつも、アッと驚くトリックも、実験的手法も初めて成立する。
エンターテイメントなら、と但し書きを付けなきゃいけないんだろうけど、現代のほとんどの表現がエンターテイメント性を持たざるを得ない以上、もっと物語は設計図段階で考えられるべき、だと思うのだけどどうだろう。最終的なルックだけで語られ過ぎている、と思うのだけどどうだろう。

以上、えらく筆鋒が厳しくなった部分もあるかも知れませんが悪しからず。
反論・異論はいつでも歓迎です。









posted by 淺越岳人 at 00:29| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグランジュプロジェクト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月20日

感想文:『さよなら、シリアルキラー』

「伝説の猟奇殺人鬼から殺人の英才教育を受けたその息子が、その才能を使って父親の模倣犯と対決する」
プロット的に出来上がってるミステリーであり青春小説。
そう、この小説のなにが良いってちゃんと青春小説なのだ。

個人的に興味が深いアメリカの保守的片田舎が舞台なのも良し。しかもそれが主人公を取り巻く息苦しい「環境」として上手く機能している。
主人公の彼女は黒人で、それゆえ白人の主人公との関係を父親に反対される。それが、父親の影を背負う主人公の「血」の問題とクロスする構成がいい。
あと、親友の底抜けに明るい血友病患者。いわゆる「頼りにならない軽薄な相棒」なのだが、病気が病気なのでその「頼りにならなさ」は中々である。
しかしその二人が暗い出自に悩む主人公のはもちろんのこと、題材的にダークになりがちな作品全体のトーンを救っている。物語的に重くなったところでの、彼らの軽妙で粋な会話に、主人公だけでなく読み手の心もフッと解放される。決して珍しい手法ではないがその配置が上手い。会話のセンスも、俺は「クリス・タッカー的うるささ」を回避していると思う。たまにギリギリだったけど。
やっぱり青春小説は主人公パーティーが魅力的じゃないと。逆に言えば、それが素敵なら大体満足。
いや、ハウイーが本当にいいヤツなんだ。

主人公の出自は特殊過ぎるが、作品の中核は彼のアイデンティティ・クライシスと、そして超克。だから普遍性があるし、フィクショナブルな設定の割に人間関係の生々しさがある。
我々は、結局手持ちのカードで戦うしかない。ディーラーは不公平だから、望むカードは得られなかったり、持ちたくもないカードを握らされたりもする。
だけど、ただドローラックを嘆いているだけじゃ大人になれない。もともと少ない手札で勝負するしかないんだ、切りたくもない切り札を使わざるを得ないターンもやがて来る。そうしなきゃならない場面はきっと来る。
そのカードをどう使うか。その戦略が、自分を作る。配られたカードをどう使うか、プレイイングが自由意志だ。「使わされるか」「使うか」を選ぶのはあくまで自分なんだ。
そんな通過儀礼(イニシエーション)の物語という強い骨格があるから、「突飛な設定のジュヴナイル」って読後感はなかった。ちゃんと主人公の「成長」と「選択」を真正面から描いている青春小説で、更に「父親殺し」的、とてもアメリカ的な王道の物語作りをしてある。だから、設定のわりに重量感のあるエンターテイメントに仕上がっているのだと思う。

ま、そういう部分を「うるせえよ」って思う人もいるんだろうけど。俺はそういう「重み」を物語に求める。

ついでに気になるところもいくつか。
ヤングアダルト小説なので台詞回しやキャラクター造形が「それっぽい」のが鼻につくがそれはそういうものとしてご愛敬、でいい気がする。俺は『ハリー・ポッター』感があった。男2女1パーティーの配置の仕方、とか。主人公が「血」について鬱的に悩む、とか。ハリポタより構成上手いと思うけど。
ミステリーとしては謎解成分が薄めでラストステージの筈の犯人との直接対決パートもサラッとしている部分は気になった。三部作の一作目という部分はわかるが、カタルシスは弱いかな、と感じた。少なくともエンディングで彼女のコニーとのシーンは必要だったと思うし、なにより観たかったなあ。

ただあとシリーズは2冊、これは読んでしまうな。

だって、ハウイーが本当にいいヤツなんだ。
posted by 淺越岳人 at 02:25| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグランジュプロジェクト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

感想文:『あの日のふたりプレイ』

冨坂が脚本を書いたエビス駅前バープロデュース『あの日のふたりプレイ』を観てくる。若干脚本の相談に乗ったりしたので書きづらい部分あり。とりあえず後半の明らかな筆力の息切れ感と、他2・3については帰宅後の脚本会議にて本人に指摘。ただ、外部仕事にしては自分のフォームで書いていたし、ちゃんとテキストで笑いを獲っていたので、座付文芸助手的視点からは一安心の仕事であった。ところでその視点は何目線なのだ。

書きづらいとは言ったが、あまりに薄味なのでやっぱり少し書こうか。

脚本的にはラストの解決パートがやはり雑。そこにドラマ的意味かロジック的快感がないと、カタルシスは生まれない。あれでは「解決するための解決パート」「お話を終わらせるための結び」でしかない。前半に比べて、情報量も少ないし。エピローグに仕掛けがあるので、それで少しは助けられたが、もしあのシーン(しかも本筋とは関係が薄い)がなかったら観客には不満が残るラストシーンになるだろう。また、少しキャラクターについての情報が薄いように感じた。少なくとも物語の伏線になるべき情報、特に「女性店員の仕事に対するプロ意識」を解決パートに使うなら、そこにワンシーン使うかせめて台詞で説明しなければならない。
演出的な面で言えば、客席との距離に対して演技が「コメディ的」(カッコ書きですからね)過ぎるように思えた。「笑いを獲らなければならない」という意志は見えたし、あの劇場(と言うよりただのバーである)で客席を巻き込んでコメディの場を立ち上げるのには必要な措置だったのかもしれないが、それによってリアリティを失い、逆に客席との一体感が薄まってしまっっていたように感じた。「もうちょっと生々しくやった方がウケんじゃねえかな」てことだ。決してコメディに向いてないフィールドだったから、しょうがないのもわかるんだけど。ただ、それによって「劇中劇的演技」と「演技」の差が観えてこなかった、というマイナスも生んでしまったので、そこのアジャストは必要だったと思う。そのダイナミクスの変化がラストシーンでは観たかったのだ。まあ、前述したようにテキスト的に甘くなっていたので、それも一因ではあるが。

うーん、なんか口五月蠅い感じになってしまった。
いやいや、普通にに声出して笑ったし、退屈もしなかったのです。ただコメディだと目線がどうしたって厳しくなるのだ。
posted by 淺越岳人 at 00:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグランジュプロジェクト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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